ISBN:978-4534047052 本当にわかる社会学
社会を考えるとき二人の人間でなく最低3人から
分離と結合が生じる
3人になってはじめて個人と集団の関係が生まれる
社会化
社会的な動物となるべく親が子どもに施す教育
社会化される立場の方にも契機がある
一方的ではなく対等な相互行為の中で行われる
学校に所属し学校で教わることが学ぶという行為と思われるようになる
というのも、権力とは、誰かが持ったり捨てたりできるようなモノではなく、ほとんど社会関係の別名といってよいようなものだからだ。あなたが人とのかかわりのなかで生きる限り、あなたはなんらかの意味で管理・統制を受けているし、社会におけるあなたは、そのような力関係のなかでしか存在し得えない
そう考えてみると、実は権力関係とは、互いに相手の思考や行為の可能性に働きかけ、それを狭めあう 戦略的なゲーム と捉えることができる。そこでは自由と権力とは、対極にある言葉ではない。自由とは、人と人との非対称な関係=権力関係に残された、入れ替えや変化の可能性を示す言葉なのである。 他方で、この考え方を敷衍すると、関係の変化の可能性がまったく見出されない極端な状態も想定することができる。フーコーはそれを「 支配」と呼ぶ。これこそが、私たちが斥けるべきものだ。
しかし、社会学者の カール・マンハイム は、マルクス主義を継承しつつも、それがあらゆるイデオロギーを批判し得る「科学」として特権的な地位にあるかのように振る舞うのは間違いだと指摘した。あらゆる思想は歴史的・社会的に条件づけられてきたのであって、その意味でイデオロギー的でない思想はない。マルクス主義もまた物事を認識する仕方のうちの一つに過ぎない、というわけである。しかし、それでは結局のところ、単に数多のイデオロギーや「科学」が乱立し、それぞれが自らの認識の正しさを主張するばかりで、真理はイデオロギーや「科学」の数だけ存在するということになってしまうのではないか(相対主義)。 そうした出口のない相対主義を回避するためにマンハイムが提示したのが、「 相関主義」という方法である。
人々の持つ反省的再帰的な性質(再帰性)こそが近代社会の特性を規定している
近代社会以前でも再帰性がなかったわけではない
人々に反省的振る舞いは伝統や慣習に紐付いていた
近代は反省的再帰的な特性自体が社会生活の基盤自体に組み込まれている
社会生活の知識の増大は、ときに私たち自身の社会生活から「自明性」をはぎ取り、不安をもたらすかもしれない。けれどもそれは、同時に私たち自身が生活を選び直すための契機をも与えてくれるのだ。
社会全体へのアプローチ
真実は一つではない
単独の行為者というモデルではなく、相互行為をする複数の行為者たちというモデルから出発するハーバーマスの観点からすれば、ヴェーバーやアドルノらが見て取った災厄の歴史は、歪められたコミュニケーションの歴史ということになる。したがって、コミュニケーションを健全化し、コミュニケーション的行為が阻害されない社会を築いていくこと、これが何よりも重要な課題とされるのである。こうした姿勢はまた、「真理などない」「何でもありだ」と考えるポストモダン思想に対して、「合意されるかぎりでの真理」を積極的に擁護することにもなるのである。